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World literature


美しい日本の春とプルースト   ―水中花の幻―   林良児

 「失ひし時」を讀んで行くと、「日本」といふ名詞や「日本の」といふ形容詞が思ひ出したやうにちよいちよい顔を出す。もっとも顔を出すだけで、別に大した 描写や記述があるわけではないが、あの長い小説を牛の歩みでゆらゆら練るやうに讀んで行く途中、ふと「日本」といふ字にぶつかると、ちやうど異郷で 日の丸の旗を見るやうに、はっと気を取り直す。また是非なき人情であらう。 (伊吹武彦、「覚書―プルーストの観た日本―」)
 
 このような「覚書」が作品杜発行の「プルウスト研究」第三号に載ったのは、昭和九年十月のことだから、これまでにもう五十余年の月日が流れている。しかし、優れたものがたとえ間接的にではあれ自分自身を支えている固有の伝統や文化に結びついているのをどこか誇らしく思う人間の哀しさなのか、私たちは今もなお大なり小なり似たような思いにとらわれるようである。『スワン家のほうへ』の第一部「コンブレー」に描かれたあのマドレーヌの挿話を読みながら、そこに出てくる「日本人の楽しむ遊び」に私がこだわるようになったのもそのような気持からである。水に漬けると花や家や人になるような「小さな紙きれ」の玩具がはたして日本にあったのだろうか。
 プルースト研究のなかでまったく見落されたまま現在にいたっているような問題はまれなのであろう。この遊びの件もすでに井上究一郎氏が論じていた。氏は、「マドレーヌの一きれと日本の水中花」(「ちくま」1971年12月号)と題する一文のなかで次のように述べている。

 (…)『失われた時』の表現によれば、「日本人が水をみたした鉢のなかに漬けてたのしむあの小さな紙きれ…」は、はたしてほんとうに日本のものだったの でしょうか?どこで見出され、どこで買われたのでしょうか?どんな形をしていたのでしょう?それはたしかに調査に価するように私には思われました。

 井上氏は、これに対する答を1942年発行の『或る女の友への手紙』に付けられたマリー・リーフスタール・ノードリンガーの序文と、氏みずからが1950年11月に直接この夫人から頂いたという手紙のなかに見いだしている。すなわち、プルーストは1904年4月、「コンブレー」の章に描かれているような「小さな紙きれ」の玩具を実際に手に入れていること、その贈り主がマリー・ノードリンガーであること、しかし、それはプルーストが言っているような「紙きれ」ではなくて、「何か色のついた乾燥した植物の髄のようなものを切って細工したもの」であること、そして、それは「ほぼ三センチに六センチほどの日本紙の小さい封筒にはいっていた」ということなのである。1904年と言えば、ヨーロッパには十九世紀末以来の日本ブームが依然として続いていた時代である。恐らくはそのような流行の現われなのだろうが、ここに言う玩具もその当時日本からの輸入品を扱っていた店であれば何スーかの値段でどこででも買うことができたというのである。だとすれば、小さな玩具はやはり日本のものであったと考えるのが妥当なのだろう。
 ところで、そのような玩具が当のわが国ではどのような名で呼ばれていたのだろうか。それが「水中花」であることを初めて教えてくれたのは、昭和二十八年四月発行の『失われた時を求めて』第一巻「スワンの恋」IIに付いている井上究一郎氏の「あとがき」である。もっとも、冒頭に引用した伊吹武彦氏の「覚書」のなかにもすでに「水中花」という呼び名が用いられているから、わが国のプルースト研究家は古くからこの小さな玩具を「水中花」として理解してきたのだろう。
 しかし、あの特異な記憶現象を説明するための「小さな紙きれ」の比喩にはプルースト自身の身の上に起きたささやかな体験が反映していることを教えられ、「水中花」と名づけられたその「小さな紙きれ」の実体がプルーストの体験のなかでは「乾燥した植物の髄のようなもの」だったはずであることを知ってからもなにか釈然としない思いが私には残った。そのわけを語るまえに、問題の一節を改めて読んでいただくことにしよう。

 「そしてあたかも、水を満たした陶器の鉢に小さな紙きれをひたして日本人がたのしむあそびで、それまで何かはっきりわからなかったその紙きれが、 水 につけられたとたんに、のび、まるくなり、色づき、わかれ、しっかりした、まぎれもない、花となり、家となり、人となるように、おなじくいま、私たちの庭のす べての花、そしてスワン氏の庭園のすべての花、そしてヴィヴォーヌ川の睡蓮、そして村の善良な人たちと彼らのささやかな住まい、そして教会、そして全 コンブレーとその近郷、形態をそなえ堅牢性をもつそうしたすべてが、町も庭もともに、私の一杯の紅茶から出てきたのである」(井上究一郎氏訳)

 無意志的記憶が甦るさまをたとえるこの遊びに必要な小道具は、水のなかでひらく仕掛の「小さな紙きれ」と、水を入れる容器である。一節に見られる陶器の鉢という表現が、ノードリンガーからの贈り物に付いていたと思われる説明書1からの借用なのか、それともプルースト独自の用語なのかは分からない。しかし、問題はその容器、すなわち陶器の鉢《bol de porcelaine》である。これはいったいどのようなものなのだろう。各種辞典に拠れば、《bol》とは、「半球形の器」、「食器の一つで、液状のものを入れるのに用いられる半球形の個人用の容器」、「飲み物を飲むために用いられるような、一般に半球形をした食器の一つ」である。二つの辞典は同義語として「口の広い碗」《jatte》を挙げている。わが国では、「水甕」(伊吹武彦氏)、「陶器の鉢」(井上究一郎氏)、「瀬戸物の茶碗」(鈴木道彦氏)などに訳されている。要するに、《bo1 de porcelaine》とは、フィンガーボウルほどの、しかも眼目である「私の茶碗」《ma tasse de thé》との釣合からすれば、やや小ぶりの、青灰色の「磁器の碗」を指すのであろう。ガラスの容器ではなくて、そのような不透明な「磁器の碗」に水を張り、そこに「圧縮した玩具」2を落して遊ぶ。引用した一節を読む限りは、それがプルーストの知っていた「日本人のする遊び」のための知識だったはずなのである。 
 ところで、そのような遊び方の場合は「小さな紙きれ」が水中で形を整えてゆく過程をつぶさに見定めることは不可能である。つまり、プルーストが体験したその遊びの中では、小さな玩具がはっきりとした形をとるまさにその瞬間まで玩具の正体は不明なのである。「磁器の碗」の中から十分に水を吸った紙きれが突如として花や家や人となって浮き出る様は、一匙の紅茶の味に誘われるようにして語り手の胸の底から涌出てきたあのコンブレーの日曜の朝のイメージにふさわしい。語り手の過去の記憶が立ち昇ってきたその通り道の暗さは、「磁器の碗」の中に満ちていたであろう一つの世界の色であったに違いない。かりに、これが「磁器の碗」ではなくてガラスのような透明な容器だとしたらどうだろう。そのなかに落された「小さな紙きれ」の変化の過程はどのような方向からでも見とどけることができる。そのような容器では、語り手の意識に到達するまでの過程が暖昧模糊としたあの無意志的記憶の比喩のための小道具としての妙味は無い。その点で、不透明な「磁器の碗」は大きな意味をもっているのである。
 さて、私が抱いた釈然としない思いというのも、じつはこの「水中花」と「磁器の碗」の関係にあった。不透明な容器を用いるような「水中花」が本当にあるのだろうか。それだけではない。水に漬けられて花になるものはなるほど水中花であるが3、プルーストの言っているのは水のなかで花や家や人になる紙片である。そのようなものをはたして「水中花」と言えるのだろうか。その存在をぜひとも確かめたいと私は思った。
 しかし、絹地の花弁と合成樹脂の葉や茎から成るきらびやかな水中花は現存していても、めざす「水中花」はどこにもなかった。ようやく見つけることのできた和紙でできた水中花でさえ茎や重りは興醒めな樹脂製だった。私は間違っていた。作品のなかに描かれたあの「小さな紙きれ」をプルーストが手にしたのは明治三十七年頃である。私は、八十年余の時の経過を忘れて、「三センチに六センチほどの日本紙の小さい封筒にはいる」ような「小さな紙きれ」の水中花を探していたのである。
 では、そのような小さな玩具の存在を確かめることは不可能なのだろうか。答は、まったく思いもかけぬところにあった。ノードリンガーが言っているような「何か色のついた乾燥した植物の髄のようなものを切って細工した」玩具は、わが国において古く「酒中花」と言われて確かに存在したものなのである4。
辞典に教えられたとは無念であるが、ブルーストの言う「日本人の楽しむ遊び」とは、今日もなお、水中花にその名残をとどめているこの古い日本の「酒中花」に違いないのである。こうしてみると、わが国のプルースト研究家が「小さな紙きれ」を「水中花」と呼んできたことそれ自体は決して間違いではないのだろ。しかし、水中花とはガラスの容器に咲かせて楽しむものと考えられている今日から見ると、「磁器の碗」のなかでひらくあの「小さな紙きれ」を「水中花」の一言で片づけてしまうのはあまりにも惜しい。プルーストの言っている遊びは、かつて「酒中花」と呼ばれていた過去の水中花であり、それは今日の水中花とは形も種類も楽しみ方も明らかに異なったものであったことを是非とも言い添えておかなければならない。そうでなければ、プルーストがそれを比喩に用いた意味も薄らいでしまう。あの「コンブレー」の一節が、五木寛之の小説『水中花』(昭和五十四年六月刊)の冒頭に引用されるなど、プルーストの「水中花」が新たなイメージを伴ってすでに一人歩きをし始めていればなおさらである。それゆえ、あの「小さな紙きれ」に「古い日本の水中花」という呼び名を与えたいと思う。
 この「古い日本の水中花」は、「花」一つを取りあげてみても今日の水中花のように明るい水の中に咲く鮮やかな花では決してないことが分かる。少なくとも、プルーストの知っていた「水中花」は、明るさを抑えた彼の部屋の「磁器の碗」の水の底から隠れるようにして咲きだしてくる「ひかえめな花」だったのである。

 親しい友よ、ひかえめな不思議な花を有難う。セヴィニェ夫人が言っているように、今宵の私は「春をつくる」ことができました。水に生きる無害な春を。あ  なたのお蔭で電灯をともした私の暗室は極東の春を迎えました。(1904年4月17日ないし24日(日))5

 しかし、ブルーストは、喘息の発作を誘発する恐れも決してないこの水に咲く無害な紙花をどのような姿勢で見つめたのだろうか。今日の絹の布花とくらべれば、色の出ばかりでなくて6形にも格段の差があったと思われるその不可思議な花の奥に垣間見た「極東の春」とは、どのようなものだったのだろうか。たしかなことは、ただ、それが光や音を遮るための分厚いカーテンで覆われた彼の「暗室」にふさわしい春の幻であったことだけである。それは、小説の語り手がレオニー叔母の煎薬であるあの乾いた菩提樹花の花びらのほのかなバラ色の輝きのなかに見た春7にも似て、おそらくは秘めやかな、げれどもまたそれだけに深く胸を打つ、美しい日本の春であったに違いない。
 それにしても、ブルーストはなぜ乾燥させた植物の髄のようなものとは言わずに、「小さな紙きれ」と言ったのだろうか。思いがけない贈り物が、「コンブレー」の章のなかに移されるまでの五年有余の歳月のあいだに、それを「小さな紙きれ」と言い換えることになる何らかの事態が生じたのだろうか。それともプルーストのたんなる記憶違いにすぎないのだろうか。また、「花」と同じように「磁器の碗」に生を受けたあの「家」や「人」は、プルーストに何を思わせたのだろうか。「小さな紙きれ」には、考えることが楽しいいくつかの謎がまだ残されているのである。


1) Cf., Marie Riefstahl née Nordlinger : Au Lecteur, in Lettres à une amie, Calame, Manchester, 1942,《〔…〕: des comprimés japonais, fleurs, poupées, maisons, qui s'ouvrent dans 1'eau.》
2)浅草の問屋街で見づけた和紙の水中花は小さなビニール袋に入っているが、その口を塞ぐやや厚手の紙には、コップのなかに咲かせた水中花と、次のような説明書きとが印刷されている、《Magic Water Flower, Place in a jar of water and see magic flowers grow》。店の主人の話によれば、昔は同じような水中花をスペインやフランスに盛んに輸出していたとのことである。
3) 他には,桜の花の塩漬けに湯を注ぐ桜茶のようなものもある。
4) 酒中花:水中花。ヤマブキの茎、またタラの木の芯や細かい木片に彩色して小さく圧縮したもの、酒または水中に入れると,泡を出しながら美しい花鳥、人形となって浮かんでくる。主に各種の花を題材として水中で開くのでこの名がある。江戸時代延宝(1673-81)のころから酒席の遊びとして盃に浮べて楽しんだ(…)中国から伝来したものらしい。明和(1764-72)年間ころからは江戸浅草観音の楊枝店で売られ、盛り場の名物として流行した。現在では、水中花の名で、夏の景物玩具として縁日の夜店などでその生命を保っている。 [下線筆者](斉藤良輔編。「日本人形玩具辞典」東京堂、昭和四十三年刊)
5) マリー・ノードリンガーへの手紙。Correspondance de Marcel Proust, Tome IV, Plon, p.111.
6) 水中花に布がつかわれるようになったのも,紙では色の出が悪いからであるという。
7) Cf., Du Côté de chez Swann, Pleiade l,pp.51-52.
*なお、この拙稿は1986年3月に発表したものであり、現在を起点にすると、たとえば冒頭の「五十余年」は「八十余年」になる。

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