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Yuichi ISAHAYA's Archive


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Yuichi ISAHAYA

ナボコフとドストエフスキイ             
諫早勇一

                                                                         ¶ Archive 1980                 Yuichi Isahaya, "Nabokov and Dostoevsky"

 ウラジーミル・ナボコフが生涯ドストエフスキイを忌み嫌い続けていたことは既によく知られた事実であり、僕自身もかつていくらか触れたことがある(1)。英語では同名の論文があるし(Seidel,M. Nabokov and Dostoevsky, 1972)、日本でも富士川義之氏が「夢の手法 ナボコフとドストエフスキー」(「ユリイカ」、一九七四年六月号)と題した評論を発表している。その他多くの論者の言及を見る時、この問題は既に解決ずみと考えてもおかしくない。それほど多くはないにしろ、ナボコフのドストエフスキイに対する皮肉をこめた嘲笑を引用するだけでも十分面白いし、ドストエフスキイという多面的作家を見る新しい視点を教えてくれるに違いない。しかし、本稿では、これまでの多くの論者のように、英語作家として大成したナボコフのドストエフスキイ評からナボコフのドストエフスキイ観を追うよりも、むしろ亡命作家シーリン(ナボコフのペンネーム)が作家として自己を確立する上で仮想敵として位置づけたと思われるドストエフスキイとの作品の上での対決を探ることによって、この問題を新しく眺め直してみたい。
 ルネ・ウェレックは「ドストエフスキイ批評史概観」(A Sketch of the History of Dostoevsky Criticism)と題した要領よくまとまった小論文の中で、第一次大戦後世界的にドストエフスキイが大流行したことを教えている(2)。また、R・C・ウィリアムズもワイマール・ドイツに「ドストエフスキイ熱」がわき立っていたと証言しているが(3)、こうした「ドストエフスキイ熱」とは、端的に言って、第一次大戦の体験から西欧文明全体の行方にかげりを感じ始めたヨーロッパの人々が新しい精神的救いとして求めたドストエフスキイ、即ち東方の神秘的予言者としてのドストエフスキイ礼讃に他ならなかった。そして、当時ロシア革命に祖国を追われてドイツ、フランスなどヨーロッパ諸国に仮の宿を求めた亡命ロシア人にとっても、このようなドストエフスキイ崇拝は自己の内面的信条に響き合うものだったろうことは想像に難くない。亡命のインテリゲンツィアたちは、こうした西欧のドストエフスキイ像を更に推し進めることによって、自らの地歩を固めていったと考えてよい。
 もちろん、ロシア人亡命者たちのドストエフスキイ像を宗教家、神秘家、予言者としてだけに限るのは正しくないし、ベーム、モチュリスキイ、チジェフスキイらのすぐれた作品研究を考える時、亡命批評におけるドストエフスキイ研究の水準の高さを認めない訳にはいかない。しかし、一方にはこのような地道な研究を持ちながらも、おおかたの亡命ロシア人たちが圧倒的なドストエフスキイ・ブームの渦中に身を投ずることによって、ロシア人たることのアイデンティティを見出していたとしても決して不思議ではあるまい。そして、こうした事実を考慮に入れる時、ナボコフのドストエフスキイ嫌いを単なる嗜好の問題として片づけられないことも自明となろう。
 今世紀の著名な作家の中でドストエフスキイ嫌いをもって知られる人はナボコフの他にもヘンリー・ジェイムズ、D・H・ロレンス、ジョゼフ・コンラッドなど幾人もいる。しかし、神秘家、予言者ドストエフスキイを忌み嫌い、その冗漫な構成を蔑んだこのような作家たちとナボコフを峻別するものは、こう考える時もはや明らかではあるまいか。彼はドストエフスキイと同じロシア人であり、ドストエフスキイに狂喜する亡命ロシア人の間で作家として身を立てなければならなかったのだから。
 余談になるが、この意味でナボコフに比しうるとしたら、作家ではないにせよ、おそらく、後にソ連に戻って身を滅ぼすスヴャトポルク=ミルスキイ公爵をおいてあるまい。高名な『ロシア文学史』(History of Russian Literature, 1927)の中で「夢中にさせるほど面白い冒険小説家(4)と説く彼の口調は、「ひどく過大評価されたセンチメンタルな、当時のゴシック小説家(5)」と語るナボコフのそれと驚くほど似かよっている。更に面白いことに、ナボコフ自身『ニコライ・ゴーゴリ』(一九四四)の中で、英語で書かれた読むに値する唯一のゴーゴリ研究としてこのミルスキイの『ロシア文学史』を推奨している(6)ように、この二人の特異な個性はお互い通し何か引きあうものを感じていたに違いない。そして、ミルスキイにとっても、ナボコフにとっても、ドストエフスキイに歯向うことは、公衆の趣味に敢えて挑戦することであり、ロシア人たることのアイデンティティを賭してまで自己の読みに拘泥し、自己の信じる文学への忠誠を貫くことだったろう。その結果、ドストエフスキイとチェーホフを不当なまでにおとしめたミルスキイの文学史が歴史に名をとどめ、ナボコフの文学が亡命文学の正当化とまで讃えられたことは歴史の皮肉であるにしても。
 富士川氏は前述の評論の中で「もっぱらロシア語で小説を書いていた一九二〇年代後半から三〇年代にかけての時期におけるナボコフの背後には、ほとんど常にドストエフスキーの影(、)が存在し、その影と無言の格闘をおこなっているような、そんな感じがする(7)」(傍点引用者、以下同じ)と述べている。また亡命ロシア人評論家シャホフスカヤも、ナボコフはドストエフスキイと「比べられるような点を、不意に誰かに見つけられはしないかと恐れているかのよう(8)」と指摘しているように、ナボコフは正しく、bête noire(9)(憎しみの的)たるドストエフスキイの文学と自己の文学の共通性に気づきながらも、ことさらそれに触れられることを厭い、暗黙の戦いを挑んでいたと考える人々もいる。しかし、既に述べた事情から推して、僕自身はナボコフはドストエフスキイに「公然たる」戦いを挑んでいたと考えたい。特に一九三〇年代半ば以降のナボコフの作品を読む時、ドストエフスキイの作品とのかかわりは、決して陰に潜んだものではなく、むしろことさらあらわにしているとさえ感じられるのだから。
 英語作家となってからの発言に比べると、ロシア語作家シーリン時代には、ナボコフのドストエフスキイに関する言及はわずかしかない。しかし、その少ない中でもフィールドが英訳している次の「ドストエフスキイ」(「絵具のしずく」と題された連詩に含まれ、一九二三年発表の詩集『天上の道』に収められた)と名づけられた短詩は、生涯かわらぬナボコフのドストエフスキイ嫌いの最も早い現われの一つだろう。

 「さながら畸形な地獄の如きこの世で
 悲嘆にくれ、痙攣的に霊感をうけて、
 予言にみちた譫妄のままに、
 彼はわれらのおどろしき世紀をスケッチした。
 彼の夜毎の号泣を耳にして
 神は思った。私の授けたすべてのものが
 こんなに恐しく、錯綜していようとは
 一体本当の話だろうかと(10)」

 ここには、一方では人の心を奪い、魂をゆすぶりながらも、また一方ではそれを大仰で、こけおどし的なものとも感じさせるドストエフスキイの病的とも見える極端な世界への生理的嫌悪感が見てとれる。そして、この生理的嫌悪感をナボコフはおそらく生涯抱きつづけたことだろう。それ故、彼はいかにドストエフスキイ的な題材を扱おうとも、でき上がった作品は全く異質なものとなることを確信していた。同時代人にドストエフスキイの影響が指摘され、ドストエフスキイとの共通性が騒がれようとも、彼は自己の文学の独自性を信じていたし、それだからこそドストエフスキイまがいの手法を用いる危険も敢えておかしたに相違ない。
 『密偵』(一九三〇)の主人公スムーロフと『地下室の手記』の語り手の類似性の指摘(11)を考慮の外に置けば、ナボコフのドストエフスキイに対する公然たる闘いは『絶望』(一九三四)に始まると言ってよい。サルトルはこの作品の主人公ゲルマンについてこう語っている。

 「この奇怪なでき損ないの主人公は、自分と瓜ふたつの男フェリックス以上に、『未成年』や『永遠の夫』や『地下生活者の手記』の作中人物たち、あの聡明で頑なな偏執狂たち、つねにいかめしくつねに卑下していて、思考の地獄のなかでじたばたもがき、あらゆるものを嘲弄し、たえず自己正当化のため全力をふりしぼるひとたち、でっち上げの告白を尊大な態度で口にするのだが、その告白のあまりに弛んだ編目から回復しようもない混乱がすけて見えても平気でいるひとたちに似ている(12)。」

 しかし、ナボコフは「ドストエフスキーの手法を借りてきたことを隠さない、だが同時に、かれは借りてきた手法を笑いものにしている(13)」とつづけてサルトルは言う。だが、『絶望』とドストエフスキイのつながりは、サルトルの言葉を借りるまでもなく明らかだ。実際、この作品はドストエフスキイへの直接の言及にあふれているのだから。例えば、五章では主人公ゲルマンとフェリックスの会話の後でこう述べられる。

 「これはすっかりこんな具合だったのだろうか?僕の記憶を忠実にたどったのだろうか、それとも僕のペンが脇道にそれて勝手にはねまわっているのだろうか?僕らのこの会話はどこかもうあまりにも文学的すぎて、ドストエフスキイの名を冠した芝居の居酒屋での遠慮がちな対話にそっくりだ。もう少し『旦那』とか、更には『旦那さま』とかいった言葉があって、『もうきっと、きっと……』というおなじみの興奮した口調が出てくれば、それですっかりわが祖国のピンカートンの神秘的なつけ合わせだ(14)」

 ドストエフスキイをロシアのピンカートン(低級な探偵小説作家)になぞらえたゲルマンは、七章でも「狡猾な犯罪者を書いた偉大な小説家たち」として「ドイル、ドストエフスキイ、ルブラン、ウォーレス(15)」と並べ、ドストエフスキイをシャーロック・ホームズやルパンの作家と同列視し、ドストエフスキイへの蔑みをあらわにしている。
 この他十章では「これは詩じゃなくて、ドストエフスキイの小説『血とよだれ』、失礼、『シュルト・ウント・ジューネ(罪と罰)』からの一節だ(16)」とか、「ラスコーリニコフとの滑稽な類似(17)」とか語られる。また、十一章では自分の手記を何と名づけようか迷ったゲルマンがまず『……の手記(Записки)』(もちろん、ドストエフスキイの『地下室の手記』『死の家の記録』――共にЗапискиに始まる――を思わせる)と考えた後、「概して『手記』ではひどく陳腐で退屈だ」として、「どうつけよう?『分身』?でも、これはもう既にある(18)」と思いめぐらす。
 とは言え、以上のような言及はこれまでもしばしば論じられてきており、ここではことさら問題にしようとは思わない。ただ一つだけ英訳で『絶望』を論じる人々の眼から抜け落ちているのは十一章の「暗いドストエフスキイ的世界(мрачная достоевщина)(19)」という言葉だろう。この言葉は先に引用した短詩の世界と直接につながっており、十年余り隔った二つの作品を貫ぬくナボコフの変わらぬ姿勢をうかがわせる。そして、彼のその一貫したドストエフスキイへの対決の態度を最もよく表わす作品を、僕は『死刑への招待』(一九三八、以下『招待』と略す)だと考えている。
 『絶望』がドストエフスキイのパロディであることはこれまでも指摘されてきている(20)が、『招待』とドストエフスキイとのつながりはほとんど触れられたことがない。しかし、この作品はドストエフスキイの『罪と罰』のパロディと考えて初めて多くの面が説明できるのではなかろうか。
 『招待』の主人公ツィンツィナトは冒頭で死刑を宣告されて牢につながれるが、その牢獄の看守の名は「ロジオン」と言う。愛読者ならすぐ思いつくように、『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフの名前もロジオンだった。更に、看守ロジオンはある意味で監獄長ロドリグの分身であることが判明し(ロドリグは愛称で。ロージャと呼ばれるが、これはラスコーリニコフの母がロジオンを呼ぶ時の愛称に等しい)、ロドリグはまた弁護士ロマーンと最後に一体化する(「ロージャとローマ(21)」)。つまり、ここに「ロジオン・ロマーノヴィチ」・ラスコーリココフが全容を現わす。
 細かいディテールで言えば、死刑囚ツィンツィナトはムッシュー・ピエールによって「斧」(топор)で斬首されることが途中で明らかにされ、「斧」のモチーフが作品にしばしば現われ始めるが、ラスコーリニコフが金貸しの老婆とその妹を打ち殺したのも「斧」によるものだった。また、ドストエフスキイの作品によく見られる「蜘蛛」(паук)は『罪と罰』でも、スヴィドリガイロフが語る永遠の話に登場する。「田舎の風呂場の類の煤だらけの小部屋」の「あらゆる隅に蜘蛛(22)」がいる、これが彼にとっての「永遠」のイメージだが、ツィンツィナトが死という永遠を待つ小部屋(独房)の唯一の友もこの蜘蛛だった(23)。
 些末的な類似ばかりではない。そもそも『招待』の基本構造自体が、人間存在にかかわる「罪」によって、死刑という「罰」を宣せられた男の物語になっているのだから。いつとは知れぬ死刑の宣告をうけて、その束の間の生を生きぬきたいと願う主人公の気持は、第二編でラスコーリニコフが思いめぐらす「死刑を宣告された」一人の男が死の直前までただ生きていたいと願う逸話(24)と通じ合うだろう。ついでに言えば、十八章で妻に対して罪を悔いることを拒むツィンツィナトは、第六編で同じように妹ドゥーニャに罪を悔いることを拒むラスコーリニコフを思いおこさせる。
 そして、このようなさまざまな類似点は、また多くの読者たちの眼にもとまるに違いない。となれば、作者ナボコフにとって、『招待』の読者に『罪と罰』を想起させることは、逆に自己の文学とドストエフスキイの文学の相違を明確にさせる上で恰好の条件となるだろう。ナボコフはここで『罪と罰』を下敷きにすることによって、ドストエフスキイに正面から戦いを挑んでいると考えることは決して不自然ではあるまい。
 一読してすぐ明らかな違いは、ツィンツィナトを除く『招待』の登場人物たち(ピエール、ロジオン、ロドリグ、ロマーンら)の滑稽で人為的な性格だろう。多くの論者たちの指摘のように、彼らは典型的なドタバク喜劇的人物であり、頻出する演劇の比喩(25)が彼らの人工的性格を浮きぼりにしている。入れ歯、かつら、仮面などもまた芝居の小道具を連想させる。シャホフスカヤはドラマチックな事件の最中に介入するコミックな要素を二人の作家に共通するものとしている(26)が、『招待』と『罪と罰』の世界を比べれば、喜劇的な要素が圧倒的な『招待』と喜劇的要素が深刻で熱病的雰囲気に散在する『罪と罰』との違いは歴然としている。そして、『招待』の全体的な喜劇的、人為的性格は、一般に考えられているこの作一品の深刻なイデーそのものを無にする方向に作用しているとは言えないだろうか。
 ストゥルーヴェはナボコフのドストエフスキイ嫌いを「どのようなものであれメッセージへの軽蔑(27)に起因させたが、この考え方は基本的にはおおかたの賛同をえていよう。メッセージへの懐疑的姿勢はナボコフのいろいろな発言にうかがえるが、『ベンド・シニスター』(一九四七)への序(一九六三)などはその代表的なものだろう。そこで彼は作品の「中心思想」の議論を退屈だとし、「シーリアスな」文学、社会的コメントを含んだ文学、諷刺的、教訓的文学を揶揄している(28)。つまり、ナボコフは作品は深刻であるほど、人が生きる上で重要なイデーを伝えてくれるほど価値が高いという俗流の常識に絶えざる戦いを挑んでいた。もちろん、ドストエフスキイを単なる説教家、人生の教師と考えることは一面的にすぎ、全く不当なものだろうが、ドストエフスキイの作品が漂わせるイデーの臭いにナボコフが人一倍敏感だったことは確かだろう。そして、それは例えば自分の作品が、全体主義国家の自由人に対する不条理な圧制を告発する政治小説、などと読まれることへの激しい反発となって現われる。自分の作品は何らかのイデー、メッセージを伝えるために書かれたのではない。それを実例として示さんがために、イデーに憑かれたドストエフスキイの主人公たちと相反する主人公を描かんがために『招待』は書かれたと言っても決して過言ではあるまい。
 『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフと『招待』の主人公ツィンツィナトを比べる時、意外に似かよったその相貌に驚く。二人とも常に自己の殻に閉じこもりがちで、他人と折り合って世間を渡っていくことが苦手な孤独な若者だという点は全く重なり合う。しかし、ラスコーリニコフにあっては、その孤独な生活は凡人と非凡人という大きな観念をはぐくみ、その観念は老婆の殺害という行為に帰結しているが、ツィンツィナトにあっては、その孤独な生活が生み出した「罪」はつまびらかにされない。彼の罪を暗示する「認識論的醜悪さ」、「非透視性(29)」、「根本的不法性(30)」といった漠然とした言葉は、この若者の罪が行為の結果ではなしに、ある観念を抱いたこと、いや観念とも呼べないものを抱こうとしたことにあることを示唆している。確かに、ツィンツィナトは八章においてラスコーリニコフを真似るかのように、哲学的とも思える思索を行なう。しかし、存在とか自我とかいう抽象的な語で語られる「観念」とは一体何だろうか。いかに彼が「何か」を知っていると語ろうとも、それが何なのか読者は到底理解しえない。いや、おそらくその何かとは何であろうとかまわない何かではなかろうか。むしろ、僕はここで重要なものは繰返し現われる「言葉」(слово)、「自己を表現する」(высказаться)といった語だと考えたい。彼は言う、「自己を表現したいという願望の他には何の、何らの願望もありはしない(31)」と。つまり、ドストエフスキイの主人公たちとは別に、ツィンツィナトが憑かれているものは自己表現の欲求であって、決して観念そのものではない。
 十九章では、いよいよ処刑を目前にして与えられた猶与期間に際して、彼は「あれこれ(コエ・シュト)書き上げたい(32)」と希望するのみだが、ふとそれが既に書き上げられていたことを悟る。結局、「あれこれ」とはあるまとまった観念を意味するものではなく、思索のプロセス、表現のプロセスを意味するに過ぎない。なるほど、ツィンツィナトは自己の中に一つのまとまった観念を構築することはかなわなかった。しかし、それはそのままツィンツィナトの弱みを意味すると、少なくともナボコフは考えていない。「あらゆる芸術作品は欺き(обманだ(33)と語る『絶望』のゲルマンと同様表現に憑かれたツィンツィナトは、「この世に僕と同じ言葉を語る人は一人もいない(34)」以上、あらゆる「凡人」たちと区別される。そして、殺人という行為の結果、流刑に処されるラスコーリニコフより、他人と異なる言葉を持つが故に死刑を宣せられるツィンツィナトが「危険」でないとどうして言えよう。ツィンツィナトの「罪」はラスコーリニコフの「罪」に対するナボコフの一つの挑戦だと考えて間違いない。
 ついでに言えば、ナボコフは『分身』をドストエフスキイの最高の作品と呼ぶ独特の意見を一九六六年のインタビューで披歴している(35)が、それは後の大作の中で壮大なスケールで観念を増殖させてゆくドストエフスキイの主人公に比して、自己のアイデンティティの確認を拙い表現に委ねるしかない初期作品の主人公たち(ジェーヴシキン、ゴリャートキンら)への愛着を言い表わしたものともとれるだろう。
 また、『罪と罰』の結末においてはラスコーリニコフの精神的更生が暗示され、「一つの世界からもう一つの世界への移行(36)」が予言される。これに対し、『招待』の結末でも、断頭台からおりて「彼と同類のものどものいる(37)」方へと進んで行くツィンツィナトの歩みが、もう一つの世界への移行を意味していることは既に多くの論者の指摘するところだ。しかし、そのもう一つの世界とはラスコーリニコフにあってはおそらく信仰による覚醒の世界だろうが、『招待』にあっては漠然とした暗示があるばかりで、論者の意見もわかれている。その中でも芸術創造の比喩による解釈が最も多いようだが、「言葉」をめぐって言いかえたらどうだろうか。前の論旨に従って言えば、この移行とは自分一人の言葉の世界から共有しうる言葉の世界への移行だと考えられる。そして、それは他の人々との断絶感に悩まされていたラスコーリニコフが達しえた人々と喜びをわかちあえる世界にも相通じよう。つまり、二人の孤独な主人公が最後に他の人々と共感し合える世界を見出す点でも、この二つの作品は共通している。
 とは言え、あくまで自己表現に固執する中で他者との共有に達しえたツィンツィナトと、宗教という精神的更生によって孤絶を抜け出たラスコーリニコフの違いもまた大きい。ナボコフはここでも思想、信条による人間の更生、イデーによる人間の変革でなしに、言葉、自己表現を通じての人間の覚醒を描くことによって『罪と罰』の結末に反旗を翻している。
 最初に戻れば、『招待』において「ロジオン・ロマーノヴィチ」は主人公ではなかった。それは単なる「交換可能なアイデンティティ(38)」でしかなかった。つまり、ナボコフの論理に従えば、ドストエフスキイの作品に現われるさまざまなイデーを担った人々とは、彼らのアイデンティティがそのイデーの違いにある限り、交換可能な存在に過ぎない。『悪霊』のシャートフとキリーロフがお互いのイデーを交換したとしても、おそらく何の矛盾もおきないだろう。結局、『招待』のロジオン、ロドリグ、ロマーンたちを「ロジオン・ロマーノヴィチ」・ラスコーリニコフのパロディと考えることは、さして奇矯でもあるまい。
 次に小説の構成で見るならば、ドストエフスキイの作品が「予感」の文学の一面を備えており、「彼女もまた法事が無事にはすまないことを予感してた(39)」とか、「彼女はこの種のことを何かしら予感していた(40)」とかいった記述が特徴的なのに対し、ナボコフの作品の構成は「偽り」(обман)、「予感の裏切り」の文学と呼べるだろう。死刑を待つツィンツィナトの周囲におこる諸事件は、どれも彼の期待に反するものばかりだ。同じ徒刑囚が実は彼の処刑人だとわかるし、逃亡へ導くかに見えた道が実は監獄長の部屋へと続いている。単に事件ばかりではない。窓かと思えたものは実は風景画であり、時計の針は毎時間看守が塗りかえたものに他ならない。そして、特に後者のような時間のパロディはこの作品の中心的モチーフでもある。十五、十六章に出てくる「フォトゴロスコープ(41)」(修正等のトリックによって、次々に幼女の将来の写真をつくり上げたもの)もまた「時間の働きのパロディ(42)」なのだから。つまり、予感の裏切りとは何よりも通常われわれの信じている時間の運行への裏切りであり、意味や連続性、因果性を持つ日常世界の感覚そのものへの裏切りだと言ってよい。そして、そのような裏切りの世界は、見方をかえれば夢の世界に通じあうものだろう。われわれの見る夢の世界にあっては、日常的な時間の運行は歪められ、しばしば意味を欠いてさえいるのだから。
 ところが、この夢の性格においても『罪と罰』と『招待』は著しく異なっている。単純化のそしりを恐れず言えば、『罪と罰』に頻出する夢の世界は予兆をこめた夢(43)、熱病の中に人類の未来を予見する夢(44)の世界であって、現実の補完的性質を強く帯びている。それは物語の流れの中で物語りの流れそのものを侵食することはない。これに対し、『招待』における夢の世界は、既に述べたように、物語世界の構造そのものを包みこむものであり、意味の整合性を欠いた「半現実(45)」としての物語世界とそのまま重なりあっている。従って、孤独の中で共に夢をはぐくみあうラスコーリニコフとツィンツィナトの根本的差違はここでもまた明らかだろう。一見ドストエフスキイ的にも思えるナボコフ小説の主人公は、その実、全く異なる物語世界に身を置いている。
 『招待』と『罪と罰』の類似性と対照性は他にもいくつか挙げられるが、この作品においてナボコフが意識的にドストエフスキイに戦いを挑んでいることはもはや明らかだろう。しばしば指摘される「分身」の問題にせよナボコフは自我の分裂、第二の自我といった視点より、交換可能なアイデンティティという視点から多くを扱っているように、誰の眼にもわかる類似したモチーフを用いながらも、彼はむしろそれをパロディ化し、自己の文学の独自性をきわだたせるために援用している。その意味でナボコフとドストエフスキイの関係は、トゥイニャーノフ言うところのドストエフスキイとゴーゴリの関係にもなぞらえられよう。そして、英語作家時代の見下すような、勝ち誇ったようなドストエフスキイ評に比べて、ロシア語作家時代のドストエフスキイとの戦いは、より創作の方法に切実にかかわっているが故に見過すことができない。ナボコフの作家としての確立にあたってドストエフスキイのはたした役割は決して小さくないと思われる。
 もちろん、繰返し述べたように、ナボコフはドストエフスキイへの生理的嫌悪感を生涯抱き続けたが、その感情はしばしば彼の文学に対する見方をせばめ、歪めている。そして、その歪んだ文学観の根底にあったものは、案外彼の身にしみついたダンディズムかも知れない。「ベツレヘム精神病院がベツレヘムに後戻りする。これがドストエフスキイだ(46)」と語る口調に透けて見えるものは、抑制なく読者の琴線にゆすぶりをかけようとする文学に対する無条件の疑念であり、それはまた彼個人だけの問題にとどまらず、一つの時代精神(Zeitgeist)をも指し示している(47)。ダンディな英国紳士ナボコフは同時にまぎれもない亡命の子でもあったと言えよう。

¶ 註

(1) 「非在の作家ナボコフ――シャホフスカヤ『ナボコフを探して』をめぐって――」 「ロシア文学論集」第四号、一九八〇年。
(2) Wellek, R. Discriminations, New Haven, 1970, p.318.
(3) Williams, R. C. Culture in Exile, Ithaca, 1972, p.315.
(4) cf. Wellek, op.cit. p. 323.
(5) Eugene Onegin. A Novel in Verse by Aleksandr Pushkin. Translated from the Russian. with a Commentary, by Vladimir Nabokov, Vol.3. New York, 1975, p. 191.
(6) Nabokov, V. Nikolai Gogol, New York, 1944, p.154
(7) 富士川義之「夢の手法 ナボコフとドストエフスキー」 「ユリイカ」、一九七四年六月号、一一三頁。
(8) Шаховская, З. В поисках Набокова, Paris, 1979, стp. 110.
(9) см . Там же, стр . 108.
(10) Field, A. Nabokov. His Life in Art, Boston, 1967, p.71.原詩は未見
(11) Ibid., p.168.
(12) サルトル全集第11巻「シチュアシオン Ⅰ」「ヴラジーミル・ナボコフ『誤解』」、人文書院、一九六五年、五十頁。
(13) 同右。
(14) Набоков, В. Отчаяние, Ann Arbor, 1978, стр. 85-86.
(15) Там же, стр. 117.
(16) Там же, стр. 169 .
(17) Там же, стр. 181 .
(18) Там же, стр. 192.
(19) Там же, стр. 196.
(20) cf. Rowe, W. Nabokov & Others, Ann Arbor, 1979, p.164.
(21) Набоков, В. Приглашение на казнь, Ann Arbor, 1979, стр. 202.
(22) Достоевский, Ф. М. Полное собрание сочинений в 30 томах, Том 6, 1973, стр.221.
(23) cf. Appel, A. Lolita : The Springboard of parody. In Dembo, L. S. (ed.) Nabokov. The Man and His Work, Madison, 1967, p. 124
(24) см . Том 6, стр. 123.
(25) cf. Foster, L. A. Nabokov's Gnostic Turpitude. In Mnemozina, 〓, 1974,p.121.
(26) Шаховская, указ. кн. стр. 112.
(27) Struve, G. Notes on Nabokov as a Russian Writer. In Dembo, op. cit., p.54.
(28) Nabokov, V. Bend Sinister, New York. 1964, p.xii.
(29) Приглашение на казнь, стр. 80.
(30) Там же, стр. 42.
(31) Там же, стр. 96.
(32) Там же, стр. 204.
(33) Отчаяние, стр. 170.
(34) Приглашение на казнь, стр. 100.
(35) An Interview with VIadimir Nabokov. In Dembo, op. cit., p. 37.
(36) Том 6, стр. 422 .
(37) Приглашение на казнь, стр. 218.
(38) cf. Stuart, D. Nabokov. The Dimensions of Parody, Baton Rouge, 1978, p.62.
(39) Том 6, стр. 297.
(40) Там же, стр. 316.
(41) Приглашение на казнь, стр. 168.
(42) Там же, стр. 168-169.
(43) см. Там 6, стр. 46-49.
(44) см. Там же, стр. 419- 420.
(45) Приглашение на казнь, стр. 97
(46) Набоков, В. Дар, Ann Аrbоr, 1975.стр. 83-84.
(47) cf. Bayley, J. Under Cover of Decadence. In Quennell. P. (ed) Vladimir Nabokov. A Tribute, London, 1979, p.44.

・付記
 本稿脱稿後、論旨にかかわる二つの論を眼にしたので、以下少し触れてみたい。
 一、ウラジーミル・ナボコフ「ロシア文学講義」、一九八二年、TBSブリタニカ。
 ここにはフョードル・ドストエフスキーの章があり、『罪と罰』など五つの作品に関する作品論と簡単な作家論が含まれている。作品論はこれまで知られていなかったもので興味深いが、作家論はこれまでの断片的発言を越えるものではない。従って「英語作家時代」のドストエフスキイ評ではなしに、「ロシア語作家時代のドストエフスキイとの戦い」を問題にした本稿の論旨自体に変更を及ぼすものではないので、本文の書きかえは行なわなかった。
 なお、「ロシア手帖」第15号(一九八二年十月)で江川卓氏がナボコフのドストエフスキイ論への反論を掲載されている。
 二、Pifer, E. Nabokov and the Novel, Cambridge, 1980.
 同書の注(p.186)に、『招待』の看守たちの名がラスコーリニコフの名前と父称を示唆しているとの記述があった。本稿の論旨を補強するものとして一言したい。