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国際ワークショップ「表象文化としてのドストエフスキー」
記念講演(key-note and memorial Lecture)
¶講演者
Stefano ALOE (University of Verona;Vice-president of IDC)
ステファノ・アローエ
(ヴェローナ大学、国際ドストエフスキー協会IDC副会長)
「ドストエフスキーの草稿におけるカリグラフィーと創造的思考」
(CALLIGRAPHY AND CREATIVE THINKING IN DOSTOEVSKY'S MANUSCRIPTS)
¶コメンテータ
Tetsuo MOCHIZUKI(Chuo Gakuin University; Vice-president of IDC)
望月哲男(中央学院大学、国際ドストエフスキー協会IDC副会長)
¶講演者
Stefano ALOE (University of Verona;Vice-president of IDC)
ステファノ・アローエ
(ヴェローナ大学、国際ドストエフスキー協会IDC副会長)
「ドストエフスキーの草稿におけるカリグラフィーと創造的思考」
(CALLIGRAPHY AND CREATIVE THINKING IN DOSTOEVSKY'S MANUSCRIPTS)
¶コメンテータ
Tetsuo MOCHIZUKI(Chuo Gakuin University; Vice-president of IDC)
望月哲男(中央学院大学、国際ドストエフスキー協会IDC副会長)
報告要旨集(2019/02/16)
Stefano ALOE (University of Verona)
“Some Notes on Akira KUROSAWA’s Idiot(Hakuchi) ”
ステファノ・アローエ「黒澤明の『白痴』について」
【要旨】ドストエフスキー原作による黒澤明の『白痴』は1951年に撮影された。当時、『羅生門』(1951)の国際的な成功を収めたあとの作品だけに、カメラワークに関しても、語りの選択に関しても実験的であり、たんに原作のプロットやテーマをなぞるだけでなく、その特殊な物語構造の特徴をも映像化しようとする黒澤の意気込みが見受けられる。そのなかで黒澤は、戦後日本のトラウマ的な精神的状況における「無垢」の意味について、善悪の問題とからめて、原作との違いを明らかにする。ドストエフスキーにおいては、善と悪は全体の一部として理解される。なおかつドストエフスキーの関心を捉えていたのは、人間の「存在」(being)そのものではなく、「実存」(existing)だった。「存在」の範疇から「実存」の範疇へと転換することで可能となる「善の浄化」――、こうしたドストエフスキーの志向は、黒澤映画の重要なテーマとして認められる。しかし黒澤は、彼の<白痴>たる亀田を、トラウマを抱えた戦後日本社会のメタファーとして機能させようとしたふしが伺える。亀田は、国家の敗北という病で「浄化」されたが、同じ理由から、記憶とルーツを奪われた状態へと転換するのだ。そうした状況のなかで、「完全に善良である」ことはどこまで可能なのか? 黒澤が、ムイシュキン公爵の超人的な善良さに深く心を動かされたのは、その精神的な美しさが、逆説的に無価値で無力であるという点ではなかったか。戦争の悲劇を経た後の世界では、「無垢」が魂を救うことはないと黒澤は認識していた。したがって、黒澤における「白痴」はまさに他者の救済者ではなく、どこまでも救済を待つ受け身の無垢として描かれた。ここに、ドストエフスキーの原作と黒澤の解釈との間の基本的な違いがある。『白痴』におけるこの認識は、同時代の黒澤のどの作品(『酔いどれ天使』『生きる』『静かなる決闘』)とも異なる特質であり、ここに黒澤詩学と『白痴』の重要な関係性を見てとることができる。死から帰還した亀田と異なり、これらの作品の主人公は、みな、死を運命づけられながら、なおかつ強い人道的目的のために全身全霊を捧げようとする。このことからも、『白痴』が黒澤の詩学のなかでもいかに特異な地位を占めているかが理解できるだろう。なお、本報告では、同時代のイタリアのネオリアリズモにおけるドストエフスキー受容の意味を探るとともに、言語や文化を異にする人間にとっての黒澤の『白痴』理解の困難さについても触れたいと思う。いずれにせよ、それぞれの国の現在を経験することによってのみ、『白痴』の主題は、傷ついた戦後社会の反映となりうるということである。
Mitsuyoshi NUMANO (The University of Tokyo)
“Variations on Idiot: from the Novel to the Stage. The Cases of Olesha and Wajda”
沼野充義「『白痴』をめぐる変奏―小説からステージへ オレーシャとワイダ」
【要約】ドストエフスキーの『白痴』を戯曲化した注目すべき二つのケースとして、ソ連の作家ユーリイ・オレーシャ(Yury Olesha)と、ポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダ(Andrzej Wajda)による脚色・上演を取り上げる。ユーリイ・オレーシャは不遇であった晩年、モスクワのヴァフタンゴフ劇場の依頼を受けて『白痴』の脚色を行っている(彼の台本に基づく同劇場での初演は1958年)。オレーシャは個人的にはドストエフスキーは好きではなく、『白痴』についてもあまり評価しない立場ではあったが、それだからこそ、彼の脚色はオレーシャならではの美学が盛り込まれて、重苦しい原作の中に詩的表現と祝祭的な色合いを持ち込んだ独自の価値を持つ作品になっている。一方、アンジェイ・ワイダは1994年、日本の歌舞伎の女形、坂東玉三郎を主演に起用して『ナスターシヤ』(Nastazja)という芝居を製作した(同年、さらに映画バージョンも作られた)。これはナスターシヤ・フィリッポヴナの遺体を前に、ムィシュキンとロゴージンが会話をする場面を描きながら、過去の回想がフラッシュバックで挟まれていくという趣向のもので、玉三郎がナスターシヤ・フィリッポヴナとムイシュキンの一人二役を演ずるという離れ業を見せる。ドストエフスキー作品に長年親しんできたワイダの演劇的ビジョンと、玉三郎の稀有の才能と魅力の、芸術至上稀にみる幸福な出会いの産物である。オレーシャ版、ワイダ版、どちらもドストエフスキー作品の忠実な再現というよりは、脚色する者の個性が発揮され、新たな価値を持つ異色の作品となっている。これもまた原作がはらんでいた可能性を引き出し、拡張したものと言えるだろう。
Yuichi ISAHAYA (Nagoya University of Foreign Studies)
“The Bust of Dostoevsky and Bernshtam the Sculptor”
諫早勇一「ドストエフスキーの胸像とベルンシタム」
【要旨】一昨年ペテルブルグのロシア美術館を訪れたとき、ドストエフスキーの胸像が置かれていることに気がついた。作者はレオポリド・ベルンシタム、聞いたこともない名前だ。調べてみると彼は若くして国外に暮らし、1914年以降帰国しないまま1939年に南仏で亡くなった亡命者だとわかった。そして、さらにいろいろ調べてみると、彼はドストエフスキーのデスマスクもつくっていること、ドストエフスキー未亡人には彼のつくった胸像がお気に入りだったのに、墓地に飾る胸像には別の人の作品が選ばれたこと、1929年に閉館になった「ドストエフスキー記念博物館」にはベルンシタム作の胸像が飾られていたことなどがわかった。ここではこうした事実を、画像を見ながら紹介したい。
Yoichi OHIRA (Tenri University)
“Grigorij Musatov as an Emigrant Painter”
大平陽一「亡命ロシア人ムサートフにとってのドストエフスキー」
【要旨】「亡命作家」という複合名詞は「亡命画家」よりもはるかに自然である。「亡命」という使命感によって裏打ちされた選良的政治意識は、民族的自覚と分かちがたく結びついているだけに、言語と無縁ではあり得ないからであろう。なぜなら、言語こそが、ある特定の集団への帰属を何よりもはっきりと示すものであるからだ。他方、言語が重要ではない芸術的・知的表現は、国際文化ないし受入国の文化に同化しえたし、実際同化することが多かった。カンジンスキーが亡命画家と呼ばれることはほとんどない。にもかかわらず、チェコスロヴァキアで認められながらもロシアへの愛着を捨てず、ドストエフスキーのチェコ語訳作品の挿絵の制作に心血を注いだ画家ムサートフは、例外的な「亡命画家」と見なせるのではないか?
Tomoyuki TAKAHASHI (The University of Tokyo)
“Dostoevsky and the Pictorial Imagination of Charles Dickens”
高橋知之「ディケンズの絵画的想像力とドストエフスキー」
【要旨】ディケンズの作品は同時代のロシアでも広く読まれており、ドストエフスキーが愛読していたことも周知の事実である。ディケンズがドストエフスキーに与えた影響については、数多くの先行研究があり、キャラクターやプロットにおける両者の類似性が指摘されてきた。本発表では、ディケンズ作品のいかなる契機にドストエフスキーが応答したのか、という観点から両者の関係を論じる。ここで鍵となるのが、ディケンズの「絵画的想像力」である。ドストエフスキーはディケンズの描く情景に意義を見出し、それを自分の作品に批評的に取り入れることで、みずからの主題を展開していった。ディケンズの影響が顕著に見られる『ステパンチコヴォ村とその住人たち』や『虐げられた人びと』などの作品を取り上げつつ、その詳細を論じたい。
Go KOSHINO (Hokkaido University)
“Film Adaptation of Crime and Punishment in Contemporary Asia: Lav Diaz's Norte, the End of History “
越野剛「『北(ノルテ)――歴史の終わり』考」
【要約】フィリピンの映画監督ラヴ・ディアスの『ノルテ、歴史の終わり』(2013年)は、ドストエフスキーの『罪と罰』を、現代フィリピン社会を舞台にした物語に翻案している。法律を学ぶ学生ファビアンはクリスマスの夜に高利貸しの女性を殺害する。借金をしていた貧しい労働者ホアキンがファビアンの代わりに逮捕されてしまう。罪の意識に苦しむファビアンは、故郷の農場に帰り、敬虔なクリスチャンである姉を暴行し、愛犬を殺すことで、葛藤から解き放たれる。冤罪で刑務所に入れられたホアキンは、不幸な囚人たちに私心なく接するうちに聖人のような境地に達する。原作小説との共通性と差異を比較しながら、『罪と罰』の物語を現代アジアの文脈に移し替えることの利点と限界を考察する。具体的には、①動物のイメージ、②キリスト教のモチーフ、③多言語・越境のテーマ、について論じる。同時期に撮られた他のアジア地域での『罪と罰』の翻案作品、カザフスタンのダルジャン・オミルバエフ監督の映画『ある学生』(2012年)、日本のTVドラマ『罪と罰 A Falsified Romance』(2012年)についても比較の対象としたい。
Masako UMEGAKI (Nagoya University of Foreign Studies)
“Woody Allen and Dostoevsky”
梅垣昌子「ウディ・アレンとドストエフスキー」
【要約】ウディ・アレン(Woody Allen)の監督および脚本による2005年の作品、『マッチポイント(Match Point)』は、冒頭近くに、主人公がケンブリッジ版の『ドストエフスキー文学案内』を片手に『罪と罰』を読みふけっている場面がある。イギリスの上流社会を描いたこの作品は、スタイリッシュでおだやかな前半部分から一転して、後半に訪れる急展開がドストエフスキーの『罪と罰』の設定を強く想起させる。周囲に熱くドストエフスキーを語っていた主人公が、ひねりのきいた現代のラスコーリニコフと化すのである。ここでアレンが提示するのは「罰なき罪」とその行方である。このテーマの萌芽は、アレン自身も出演している1989年の『ウディ・アレンの重罪と軽罪(Crimes and Misdemeanors)』 にすでに見ることができる。ここでは入れ子構造やエピソードの並置、回想シーンや資料映像の唐突な挿入などによって、ポリフォニックな世界が展開し、Match Pointに結実する哲学的対話が多角的に提示される。本報告では、ユダヤ系の家庭に生まれたウディ・アレンがドストエフスキーのテーマをどのように裏返し、どのような形式を用いて20世紀および21世紀に蘇らせたのか、彼のシニシズムに注意しながら考察する。
Ryoji HAYASHI (Nagoya University of Foreign Studies)
“Robert Bresson and Dostoevsky”
林良児「ロベール・ブレッソンとドストエフスキー」
【要約】ブレッソンがドストエフスキーの小説に着想を得て制作したとされる映画は、『スリ』Pickpocket(1959)、『優しい女』Une femme douce(1969)、『夢想者の四夜』Les quatre nuits d’un rêveur(1971)の三作品である。『優しい女』と『夢想者の四夜』については、たしかにドストエフスキー原作であることがブレッソンの言葉で確認できる。ところで、これら二作品が立て続けに制作されたのはなぜなのだろう。理由の一つとして考えられるのは、やはり、時代の影響である。とりわけ1950年代半ば以降、フランスの映画監督たちは競うようにしてドストエフスキーの世界に向かっていたのである。では、ブレッソンがこのロシアの文豪の小説の映画化を試みた固有の理由とはなにか。その答えは、彼の『シネマトグラフの覚書』Notes sur le cinématographe, 1975のなかに求めることができるだろう。当時のブレッソンは、彼がプルーストの文学にも見出していた「驚くほど複雑で凝集した、純粋に内的な総体」なるものをドストエフスキーの世界に見出し、その「等価物は映画にとってもふさわしいものになりうる」と思っていたのである。このような内的な要因と時代という外的な要因とがブレッソンを連続した二作品に導いた理由であると思われる。しかし、彼は目的を達成したのだろうか。
Fumiaki NOYA (Nagoya University of Foreign Studies)
“Dostoevsky in Argentine Films, or the Power of ‘Swirl’”
野谷文昭「アルゼンチンのドストエフスキー映画、あるいは《渦》の力」 【要旨】アルゼンチン映画にはドストエフスキーの小説を原作とする映画作品がこれまで三本製作されている。一本は『地下室の手記』、他の二本は製作の時期は異なるが、いずれも『賭博者』に基づいている。ここでは原作に近いレオン・クリモフスキー監督による1947年製作の『賭博者』について述べる。この映画では手記に語らせるのではなく、主人公のアンドレスが過去の経緯を回想し、男爵に語る形で物語が展開する。彼は地主階級のドクトルと呼ばれる人物の秘書を務め、この一家の巻き起こす騒動に巻き込まれる。ドクトルは寡夫で、義理の娘パウリーナがいる。一方、若い婚約者もいる。事業に失敗し莫大な負債を抱えている彼は、カジノのあるホテルに一家で逗留している。義理の娘に恋心を抱く主人公は彼女のために賭博で金を稼ぐ。ドクトルは富裕な<祖母>の遺産を当てにしている。するとその<祖母>がホテルに現れ、騒動を引き起こす。彼女は賭博で大勝ちするが最後はすべて失う。やがて主人公も賭博の魅力に引き込まれ、勝ち負けを繰り返す。パウリーナは実は彼を愛していて、賭博にのめり込む彼を救おうと迎えに来るが、勝ち続ける彼は止まらない。そして大負けしたとき、彼女を探しにいくが姿は消えていた。原作では山頂の崖から<奈落>に飛び込んでみせるという表現が出てくる。映画では代わりに川の<渦>が象徴的にクローズアップされ、誰かが飛び込むことを暗示する一方、モンタージュによって<渦>はルーレットの回転と重ねられている。原作では主人公はパリに発つが、映画に後日譚はなく、賭博が招いたカタストロフが渦を巻く形で終わる。
Ikuo KAMEYAMA (Nagoya University of Foreign Studies)
“Bertolucci’s Patricide. A Hypothesis”
亀山郁夫「ベルトルッチの父殺し ひとつの仮説」
【要旨】ベルナルド・ベルトルッチ初期の作品の一つで、ドストエフスキー『分身』にヒントを得た『パートナー(”Partner”)』を中心に、彼の一連の作品における「父殺し」の系譜を探り、若いベルトルッチの内的苦闘を辿る。高名な詩人・作家だった父の薫陶を受け、若くして映画監督の道に入るが、同時代のヨーロッパの映画界には、ネオリアリズモの大映像作家のほか、パゾリーニ、ゴダールら近い世代の前衛たちが君臨していた。自らの作風を確立していくプロセスで、若いベルトルッチはこれら先達、とりわけゴダールとどう闘い、どう乗り越え、「ゴダール殺し」を図ったのか、映画人として自立を勝ち取るため、ドストエフスキー『分身』に着目した理由とは何か。本報告では、「父殺し」の観点から『暗殺の森(”Il Conformista”)』(70)についても言及する。
Satoshi BAMBA (Niigata University)
“Dostoevsky and the Graphic Imagination”
番場 俊「ドストエフスキーとグラフィックな想像力」
【要旨】「描画(ドローイング)」と「書記(ライティング)」の双方に関わる「グラフィック」の概念は、さまざまな人物の顔やゴチック建築のデッサンと、習字のお手本のようなカリグラフィーが同一ページ上に混在するドストエフスキーの創作ノートを理解するうえで有益である。同時に、ひたすら他者の文章を書き写す筆耕というゴーゴリ以来のロシア文学史の伝統や、人の外見からそのキャラクターを推測することができるとする「観相学(フィジオグノミー)」という擬アリストテレス以降の西欧文化の伝統も考慮しなければならない。同時代のトゥルゲーネフのサロンでおこなわれていた「肖像ゲーム」といった、あまり知られていない事例も紹介しつつ、19世紀ロシア文化史における「グラフィックな想像力」のあり方を検討する。
“Some Notes on Akira KUROSAWA’s Idiot(Hakuchi) ”
ステファノ・アローエ「黒澤明の『白痴』について」
【要旨】ドストエフスキー原作による黒澤明の『白痴』は1951年に撮影された。当時、『羅生門』(1951)の国際的な成功を収めたあとの作品だけに、カメラワークに関しても、語りの選択に関しても実験的であり、たんに原作のプロットやテーマをなぞるだけでなく、その特殊な物語構造の特徴をも映像化しようとする黒澤の意気込みが見受けられる。そのなかで黒澤は、戦後日本のトラウマ的な精神的状況における「無垢」の意味について、善悪の問題とからめて、原作との違いを明らかにする。ドストエフスキーにおいては、善と悪は全体の一部として理解される。なおかつドストエフスキーの関心を捉えていたのは、人間の「存在」(being)そのものではなく、「実存」(existing)だった。「存在」の範疇から「実存」の範疇へと転換することで可能となる「善の浄化」――、こうしたドストエフスキーの志向は、黒澤映画の重要なテーマとして認められる。しかし黒澤は、彼の<白痴>たる亀田を、トラウマを抱えた戦後日本社会のメタファーとして機能させようとしたふしが伺える。亀田は、国家の敗北という病で「浄化」されたが、同じ理由から、記憶とルーツを奪われた状態へと転換するのだ。そうした状況のなかで、「完全に善良である」ことはどこまで可能なのか? 黒澤が、ムイシュキン公爵の超人的な善良さに深く心を動かされたのは、その精神的な美しさが、逆説的に無価値で無力であるという点ではなかったか。戦争の悲劇を経た後の世界では、「無垢」が魂を救うことはないと黒澤は認識していた。したがって、黒澤における「白痴」はまさに他者の救済者ではなく、どこまでも救済を待つ受け身の無垢として描かれた。ここに、ドストエフスキーの原作と黒澤の解釈との間の基本的な違いがある。『白痴』におけるこの認識は、同時代の黒澤のどの作品(『酔いどれ天使』『生きる』『静かなる決闘』)とも異なる特質であり、ここに黒澤詩学と『白痴』の重要な関係性を見てとることができる。死から帰還した亀田と異なり、これらの作品の主人公は、みな、死を運命づけられながら、なおかつ強い人道的目的のために全身全霊を捧げようとする。このことからも、『白痴』が黒澤の詩学のなかでもいかに特異な地位を占めているかが理解できるだろう。なお、本報告では、同時代のイタリアのネオリアリズモにおけるドストエフスキー受容の意味を探るとともに、言語や文化を異にする人間にとっての黒澤の『白痴』理解の困難さについても触れたいと思う。いずれにせよ、それぞれの国の現在を経験することによってのみ、『白痴』の主題は、傷ついた戦後社会の反映となりうるということである。
Mitsuyoshi NUMANO (The University of Tokyo)
“Variations on Idiot: from the Novel to the Stage. The Cases of Olesha and Wajda”
沼野充義「『白痴』をめぐる変奏―小説からステージへ オレーシャとワイダ」
【要約】ドストエフスキーの『白痴』を戯曲化した注目すべき二つのケースとして、ソ連の作家ユーリイ・オレーシャ(Yury Olesha)と、ポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダ(Andrzej Wajda)による脚色・上演を取り上げる。ユーリイ・オレーシャは不遇であった晩年、モスクワのヴァフタンゴフ劇場の依頼を受けて『白痴』の脚色を行っている(彼の台本に基づく同劇場での初演は1958年)。オレーシャは個人的にはドストエフスキーは好きではなく、『白痴』についてもあまり評価しない立場ではあったが、それだからこそ、彼の脚色はオレーシャならではの美学が盛り込まれて、重苦しい原作の中に詩的表現と祝祭的な色合いを持ち込んだ独自の価値を持つ作品になっている。一方、アンジェイ・ワイダは1994年、日本の歌舞伎の女形、坂東玉三郎を主演に起用して『ナスターシヤ』(Nastazja)という芝居を製作した(同年、さらに映画バージョンも作られた)。これはナスターシヤ・フィリッポヴナの遺体を前に、ムィシュキンとロゴージンが会話をする場面を描きながら、過去の回想がフラッシュバックで挟まれていくという趣向のもので、玉三郎がナスターシヤ・フィリッポヴナとムイシュキンの一人二役を演ずるという離れ業を見せる。ドストエフスキー作品に長年親しんできたワイダの演劇的ビジョンと、玉三郎の稀有の才能と魅力の、芸術至上稀にみる幸福な出会いの産物である。オレーシャ版、ワイダ版、どちらもドストエフスキー作品の忠実な再現というよりは、脚色する者の個性が発揮され、新たな価値を持つ異色の作品となっている。これもまた原作がはらんでいた可能性を引き出し、拡張したものと言えるだろう。
Yuichi ISAHAYA (Nagoya University of Foreign Studies)
“The Bust of Dostoevsky and Bernshtam the Sculptor”
諫早勇一「ドストエフスキーの胸像とベルンシタム」
【要旨】一昨年ペテルブルグのロシア美術館を訪れたとき、ドストエフスキーの胸像が置かれていることに気がついた。作者はレオポリド・ベルンシタム、聞いたこともない名前だ。調べてみると彼は若くして国外に暮らし、1914年以降帰国しないまま1939年に南仏で亡くなった亡命者だとわかった。そして、さらにいろいろ調べてみると、彼はドストエフスキーのデスマスクもつくっていること、ドストエフスキー未亡人には彼のつくった胸像がお気に入りだったのに、墓地に飾る胸像には別の人の作品が選ばれたこと、1929年に閉館になった「ドストエフスキー記念博物館」にはベルンシタム作の胸像が飾られていたことなどがわかった。ここではこうした事実を、画像を見ながら紹介したい。
Yoichi OHIRA (Tenri University)
“Grigorij Musatov as an Emigrant Painter”
大平陽一「亡命ロシア人ムサートフにとってのドストエフスキー」
【要旨】「亡命作家」という複合名詞は「亡命画家」よりもはるかに自然である。「亡命」という使命感によって裏打ちされた選良的政治意識は、民族的自覚と分かちがたく結びついているだけに、言語と無縁ではあり得ないからであろう。なぜなら、言語こそが、ある特定の集団への帰属を何よりもはっきりと示すものであるからだ。他方、言語が重要ではない芸術的・知的表現は、国際文化ないし受入国の文化に同化しえたし、実際同化することが多かった。カンジンスキーが亡命画家と呼ばれることはほとんどない。にもかかわらず、チェコスロヴァキアで認められながらもロシアへの愛着を捨てず、ドストエフスキーのチェコ語訳作品の挿絵の制作に心血を注いだ画家ムサートフは、例外的な「亡命画家」と見なせるのではないか?
Tomoyuki TAKAHASHI (The University of Tokyo)
“Dostoevsky and the Pictorial Imagination of Charles Dickens”
高橋知之「ディケンズの絵画的想像力とドストエフスキー」
【要旨】ディケンズの作品は同時代のロシアでも広く読まれており、ドストエフスキーが愛読していたことも周知の事実である。ディケンズがドストエフスキーに与えた影響については、数多くの先行研究があり、キャラクターやプロットにおける両者の類似性が指摘されてきた。本発表では、ディケンズ作品のいかなる契機にドストエフスキーが応答したのか、という観点から両者の関係を論じる。ここで鍵となるのが、ディケンズの「絵画的想像力」である。ドストエフスキーはディケンズの描く情景に意義を見出し、それを自分の作品に批評的に取り入れることで、みずからの主題を展開していった。ディケンズの影響が顕著に見られる『ステパンチコヴォ村とその住人たち』や『虐げられた人びと』などの作品を取り上げつつ、その詳細を論じたい。
Go KOSHINO (Hokkaido University)
“Film Adaptation of Crime and Punishment in Contemporary Asia: Lav Diaz's Norte, the End of History “
越野剛「『北(ノルテ)――歴史の終わり』考」
【要約】フィリピンの映画監督ラヴ・ディアスの『ノルテ、歴史の終わり』(2013年)は、ドストエフスキーの『罪と罰』を、現代フィリピン社会を舞台にした物語に翻案している。法律を学ぶ学生ファビアンはクリスマスの夜に高利貸しの女性を殺害する。借金をしていた貧しい労働者ホアキンがファビアンの代わりに逮捕されてしまう。罪の意識に苦しむファビアンは、故郷の農場に帰り、敬虔なクリスチャンである姉を暴行し、愛犬を殺すことで、葛藤から解き放たれる。冤罪で刑務所に入れられたホアキンは、不幸な囚人たちに私心なく接するうちに聖人のような境地に達する。原作小説との共通性と差異を比較しながら、『罪と罰』の物語を現代アジアの文脈に移し替えることの利点と限界を考察する。具体的には、①動物のイメージ、②キリスト教のモチーフ、③多言語・越境のテーマ、について論じる。同時期に撮られた他のアジア地域での『罪と罰』の翻案作品、カザフスタンのダルジャン・オミルバエフ監督の映画『ある学生』(2012年)、日本のTVドラマ『罪と罰 A Falsified Romance』(2012年)についても比較の対象としたい。
Masako UMEGAKI (Nagoya University of Foreign Studies)
“Woody Allen and Dostoevsky”
梅垣昌子「ウディ・アレンとドストエフスキー」
【要約】ウディ・アレン(Woody Allen)の監督および脚本による2005年の作品、『マッチポイント(Match Point)』は、冒頭近くに、主人公がケンブリッジ版の『ドストエフスキー文学案内』を片手に『罪と罰』を読みふけっている場面がある。イギリスの上流社会を描いたこの作品は、スタイリッシュでおだやかな前半部分から一転して、後半に訪れる急展開がドストエフスキーの『罪と罰』の設定を強く想起させる。周囲に熱くドストエフスキーを語っていた主人公が、ひねりのきいた現代のラスコーリニコフと化すのである。ここでアレンが提示するのは「罰なき罪」とその行方である。このテーマの萌芽は、アレン自身も出演している1989年の『ウディ・アレンの重罪と軽罪(Crimes and Misdemeanors)』 にすでに見ることができる。ここでは入れ子構造やエピソードの並置、回想シーンや資料映像の唐突な挿入などによって、ポリフォニックな世界が展開し、Match Pointに結実する哲学的対話が多角的に提示される。本報告では、ユダヤ系の家庭に生まれたウディ・アレンがドストエフスキーのテーマをどのように裏返し、どのような形式を用いて20世紀および21世紀に蘇らせたのか、彼のシニシズムに注意しながら考察する。
Ryoji HAYASHI (Nagoya University of Foreign Studies)
“Robert Bresson and Dostoevsky”
林良児「ロベール・ブレッソンとドストエフスキー」
【要約】ブレッソンがドストエフスキーの小説に着想を得て制作したとされる映画は、『スリ』Pickpocket(1959)、『優しい女』Une femme douce(1969)、『夢想者の四夜』Les quatre nuits d’un rêveur(1971)の三作品である。『優しい女』と『夢想者の四夜』については、たしかにドストエフスキー原作であることがブレッソンの言葉で確認できる。ところで、これら二作品が立て続けに制作されたのはなぜなのだろう。理由の一つとして考えられるのは、やはり、時代の影響である。とりわけ1950年代半ば以降、フランスの映画監督たちは競うようにしてドストエフスキーの世界に向かっていたのである。では、ブレッソンがこのロシアの文豪の小説の映画化を試みた固有の理由とはなにか。その答えは、彼の『シネマトグラフの覚書』Notes sur le cinématographe, 1975のなかに求めることができるだろう。当時のブレッソンは、彼がプルーストの文学にも見出していた「驚くほど複雑で凝集した、純粋に内的な総体」なるものをドストエフスキーの世界に見出し、その「等価物は映画にとってもふさわしいものになりうる」と思っていたのである。このような内的な要因と時代という外的な要因とがブレッソンを連続した二作品に導いた理由であると思われる。しかし、彼は目的を達成したのだろうか。
Fumiaki NOYA (Nagoya University of Foreign Studies)
“Dostoevsky in Argentine Films, or the Power of ‘Swirl’”
野谷文昭「アルゼンチンのドストエフスキー映画、あるいは《渦》の力」 【要旨】アルゼンチン映画にはドストエフスキーの小説を原作とする映画作品がこれまで三本製作されている。一本は『地下室の手記』、他の二本は製作の時期は異なるが、いずれも『賭博者』に基づいている。ここでは原作に近いレオン・クリモフスキー監督による1947年製作の『賭博者』について述べる。この映画では手記に語らせるのではなく、主人公のアンドレスが過去の経緯を回想し、男爵に語る形で物語が展開する。彼は地主階級のドクトルと呼ばれる人物の秘書を務め、この一家の巻き起こす騒動に巻き込まれる。ドクトルは寡夫で、義理の娘パウリーナがいる。一方、若い婚約者もいる。事業に失敗し莫大な負債を抱えている彼は、カジノのあるホテルに一家で逗留している。義理の娘に恋心を抱く主人公は彼女のために賭博で金を稼ぐ。ドクトルは富裕な<祖母>の遺産を当てにしている。するとその<祖母>がホテルに現れ、騒動を引き起こす。彼女は賭博で大勝ちするが最後はすべて失う。やがて主人公も賭博の魅力に引き込まれ、勝ち負けを繰り返す。パウリーナは実は彼を愛していて、賭博にのめり込む彼を救おうと迎えに来るが、勝ち続ける彼は止まらない。そして大負けしたとき、彼女を探しにいくが姿は消えていた。原作では山頂の崖から<奈落>に飛び込んでみせるという表現が出てくる。映画では代わりに川の<渦>が象徴的にクローズアップされ、誰かが飛び込むことを暗示する一方、モンタージュによって<渦>はルーレットの回転と重ねられている。原作では主人公はパリに発つが、映画に後日譚はなく、賭博が招いたカタストロフが渦を巻く形で終わる。
Ikuo KAMEYAMA (Nagoya University of Foreign Studies)
“Bertolucci’s Patricide. A Hypothesis”
亀山郁夫「ベルトルッチの父殺し ひとつの仮説」
【要旨】ベルナルド・ベルトルッチ初期の作品の一つで、ドストエフスキー『分身』にヒントを得た『パートナー(”Partner”)』を中心に、彼の一連の作品における「父殺し」の系譜を探り、若いベルトルッチの内的苦闘を辿る。高名な詩人・作家だった父の薫陶を受け、若くして映画監督の道に入るが、同時代のヨーロッパの映画界には、ネオリアリズモの大映像作家のほか、パゾリーニ、ゴダールら近い世代の前衛たちが君臨していた。自らの作風を確立していくプロセスで、若いベルトルッチはこれら先達、とりわけゴダールとどう闘い、どう乗り越え、「ゴダール殺し」を図ったのか、映画人として自立を勝ち取るため、ドストエフスキー『分身』に着目した理由とは何か。本報告では、「父殺し」の観点から『暗殺の森(”Il Conformista”)』(70)についても言及する。
Satoshi BAMBA (Niigata University)
“Dostoevsky and the Graphic Imagination”
番場 俊「ドストエフスキーとグラフィックな想像力」
【要旨】「描画(ドローイング)」と「書記(ライティング)」の双方に関わる「グラフィック」の概念は、さまざまな人物の顔やゴチック建築のデッサンと、習字のお手本のようなカリグラフィーが同一ページ上に混在するドストエフスキーの創作ノートを理解するうえで有益である。同時に、ひたすら他者の文章を書き写す筆耕というゴーゴリ以来のロシア文学史の伝統や、人の外見からそのキャラクターを推測することができるとする「観相学(フィジオグノミー)」という擬アリストテレス以降の西欧文化の伝統も考慮しなければならない。同時代のトゥルゲーネフのサロンでおこなわれていた「肖像ゲーム」といった、あまり知られていない事例も紹介しつつ、19世紀ロシア文化史における「グラフィックな想像力」のあり方を検討する。